もっと知りたい!全羅道の歴史<前編>

もっと知りたい!全羅道の歴史〈前編〉

韓国随一の穀倉地帯で、おいしい食べ物と豊かな文化の宝庫といわれる전라도(チョルラド)(全羅道)。魅力あふれる全羅道の文化と歴史を全4回に分けて紹介します。この記事では、全羅道の先史時代から高麗の建国までの歴史を見ていきます。「もっと知りたい!全羅道の地理」記事も併せてご覧ください。

先史時代から百済まで

先史時代

旧石器時代の遺跡や新石器時代の土器などが、섬진강(ソムジンガン)(蟾津江)流域や남해(ナメ)(南海)沿岸部をはじめ、全羅道各地で出土していることから、大昔からこの地域に人々が暮らしていたとされる。

青銅器時代に入ると、この地域には北方で見られる細形銅剣などの遺物が多く出土するようになり、北方の民族の流入と定着があったと考えられている。

韓国の青銅器時代を代表する墓の形式である고인돌(コインドル)(支石墓)も全羅道全体で2万基ほど見つかっており、韓国全国の約半数に上る。

中でも、전라북도(チョルラブクト)(全羅北道)の고창군(コチャングン)(高廠郡)、전라남도(チョルラナムド)(全羅南道)の화순군(ファスングン)(和順郡)の遺跡地は、ユネスコの世界遺産に登録されている。

고인돌
ユネスコの世界遺産に登録された。全羅北道高廠郡の支石墓。Kussy, CC BY-SA 2.1 JP https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.1/jp/deed.en, via Wikimedia Commons

初の中央集権国家「百済」

全羅道地域を初めて治めた中央集権国家は백제(ペクチェ)(百済)だ。

韓国では、百済の建国の年を、고려(コリョ)(高麗)時代の1145年に完成した김부식(キムブシク)(金富軾)の『삼국사기(サムグクサギ)(三国史記)』の記述に従って紀元前18年とするものが多いが、日本では、마한(マハン)(馬韓)の部族国家の一つで、한강(ハンガン)(漢江)流域にあった백제국(ペクチェグク)(伯済国)が3世紀後半から4世紀の始めに54の部族国家をまとめて成立したと捉えることが多いようである。

いずれにしても、부여(プヨ)(扶余)系の고구려(コグリョ)(高句麗)の流民が中心となって、成立したと考えられている。

百済の建国説話『三国史記』

百済の建国説話としても、『三国史記』が伝える内容が広く知られている。これによると、高句麗を建てた주몽(チュモン)(朱蒙)には扶余王の娘소서노(ソソノ)(召西奴)との間に二人の息子、비류(ピリュ)(沸流)と온조(オンジョ)(温祚)がいたが、先妻との間にもうけた長男、유리명왕(ユリミョンワン)(瑠璃明王)が王位を継ぐことになった。

迫害を恐れた沸流と温祚の兄弟は母の召西奴を連れて、高句麗の都である졸본(チョルボン)(卒本=現在の中国遼寧省本渓市)を離れ南下。

兄の沸流は海の近くの미추홀(ミチュホル)(弥鄒忽=現在の인천(インチョン):仁川)に都を定め、弟の温祚は、위례성(ウィレソン)(慰礼城=現在の서울(ソウル)南東部)に都を定めた。

沸流の弥鄒忽が土地が湿っていて水も塩辛く、住むに堪えなかったのに対し、温祚の方は大いに栄え、これが百済となったとされる。

『三国史記』には、「百姓が喜んで従う」ということで、国の名を「百済」にしたとの記述があるという。

「百」は「全て」を意味するので、これを百済の理想と指摘する声も多い。전주(チョンジュ)(全州)には「全」という字が入り、古い地名の완산주(ワンサンジュ)(完山州)の「完」にも「全て」という意味がある。

百済の外交と滅亡

百済は、4世紀の근초고왕(クンチョゴワン)(近肖古王)の時代に全盛期を迎えた。百済の領土は、南は全羅道の南海岸にまで達し、北は황해도(ファンヘド)(黄海道)の一部にまで拡大した。

近肖古王の時代の百済の領土
近肖古王の時代の百済の領土(黄緑色)。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:History_of_Korea-Three_Kingdoms_Period-375_CE.gif

しかし、391年に高句麗で광개토왕(クァンゲトワン)(広開土王)が即位すると、百済は勢いに押され、475年には高句麗の장수왕(チャンスワン)(長寿王)によって首都한성(ハンソン)(漢城。現在のソウル)を奪われた。

これにより、百済は웅진(ウンジン)(熊津=現在の공주(コンジュ):公州)、さらに사비(サビ)(泗沘=現在の부여(プヨ):扶余)に遷都し、再起を図った。

551年、성왕(ソンワン)(聖王)は신라(シルラ)(新羅)と組んで漢江流域を高句麗の手から取り戻したが、間もなく新羅に奪われた。

百済は海上交通を利用して中国や日本との交流も活発に行った。384年、中国を経由したインドの僧侶によって百済に仏教が伝わり、各地で寺院や仏像が作られた。

6世紀には、ますます仏教が盛んになり、日本への仏教伝来も行われ、飛鳥文化に多くの影響を及ぼした。

百済から多くの僧だけでなく、建築の技術を持った人々が渡来し、飛鳥寺や四天王寺など多くの仏教寺院を建立した。

また、中国から百済に伝えられた漢字は、百済人の왕인(ワンイン)(王仁)によって日本にもたらされたとされる。

660年、百済は新羅と唐の連合軍に首都の扶余を攻め落とされ、滅亡した。その後3年にわたって遺民らによって百済復興のための激しい抵抗が続いたものの、663年に百済・倭の連合軍が白村江の戦いで敗れたことにより、復興は果たされなかった。

後百済から高麗まで

後百済時代

百済の遺民は통일신라(トンイルシルラ)(統一新羅)の支配下に置かれるが、統一新羅時代末期の892年、百済の後継者を主張した견훤(キョヌォン)(甄萱)が、新羅に反旗を翻し、全州で후백제(フベクチェ)(後百済)を興した。

その後40年余りの間、후고구려(フゴグリョ)(後高句麗)を興した궁예(クンイェ)(弓裔)や高麗を興した왕건(ワンゴン)(王建)の勢力と対峙(タイジ)したものの、王位継承を巡り内紛が起き、936年に甄萱は高麗に投降した。

これにより、後高句麗、後百済、新羅の三国による後三国時代は、高麗が統一を果たしたことで幕を閉じた。

高麗の建国

高麗初代王の王建は、国の統治の指針を「훈요십조(フニョシプチョ)(訓要十条)」にまとめたが、その一つに「차현(チャヒョン)(車峴)以南、공주강(コンジュガン)(公州江)外は山や地に背逆の勢があり、人心も同様である。その地方の人間を登用してはならない」というものがあった。これは충청도(チュンチョンド)(忠清道)の一部と全羅道地域を指すとされており、この地方の人々は官職への道が閉ざされてしまう。

この「訓要十条」は後世の作ともいわれているが、韓国における全羅道への偏見が、ここに始まったと考える人々も少なくない。

13世紀、高麗は元の侵略を受け、一時は강화도(カンファド)(江華島)に首都を移して抵抗するものの、元と講和し再び개경(ケギョン)(開京)に首都を戻した。

しかし、これに反対して最後まで戦おうとしたのが、高麗の최씨정권(チュェッシジョングォン)(崔氏政権)の私兵であった삼별초(サムビョルチョ)(三別抄)だ。

1270年、배중손(ペジュンソン)(裵仲孫)をリーダーとした三別抄は、高麗と元の連合軍の攻撃を受け、船で全羅南道の진도(チンド)(珍島)に拠点を移して抵抗を続けた。

この地域の30以上の島を支配下においた三別抄には、地域の農民や漁民の多くが参加したといわれる。

三別抄は最後、제주도(チェジュド)(済州島)にまで渡ったものの、1273年に連合軍の討伐作戦により鎮圧された。

1398年の高麗の領土
1398年の高麗の領土。KJS615, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

高麗時代の文化

仏教文化が発展した高麗時代の美術品として特筆すべきものに高麗青磁があるが、全羅北道の부안(プアン)(扶安)、全羅南道の강진(カンジン)(康津)がこの時代の青磁産地として知られる。

高麗青磁
高麗青磁。de Calais, CC BY 2.0 https://creativecommons.org/licenses/by/2.0, via Wikimedia Commons

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