경상도(慶尚道)の地理と歴史をひも解きます。「もっと知りたい!慶尚道の地理と歴史〈前編〉」と「もっと知りたい!慶尚道の地理と歴史〈後編〉」記事も併せてご覧ください。
高麗時代と朝鮮時代
多くの学者を輩出
신라(新羅)が滅び고려(高麗)時代になると都は경주(慶州)から개경(開京=現在の개성<開城>)に移り、조선(朝鮮)時代には한성(漢城=現在の서울)に移る。
高麗以降この地域は歴史の中心からは遠ざかるが「조선인재의 절반이 영남에 있다(朝鮮の人材の半分は嶺南にあり)」と言われ、中央の要職に登用されたエリートや儒教思想を極めた学者が生まれた。
朝鮮時代の16世紀に儒教哲学である성리학(性理学)を発展させたのが、안동(安東)出身の이황(李滉)だ。
号は퇴계(退渓)で、1000ウォン札に描かれている人物である。彼の考えを引き継いだのが영남학파(嶺南学派)で、이이(李珥)の系統を引く기호학파(畿湖学派)と双璧を成した。
嶺南学派は当初、경상북도(慶尚北道)をベースにした李滉の退渓学派と、경상남도(慶尚南道)をベースにした조식(曺植)の남명학파(南冥学派)に分かれていた。南冥学派の特徴は理論よりも実践にあり、不義に対して妥協をしない点にあった。
そのため임진왜란(壬辰倭乱=文禄・慶長の役)の際には義兵となって日本軍に抵抗した門人たちが多くいた。
一方、李滉は郷里の安東で研究と教育に専念したが、多くの人材が育つことで、退渓学派はその伝統と地位を長く保ち続けた。
文禄・慶長の役と日朝関係
1592年に起きた文禄・慶長の役の際、日本軍は부산(釜山)から한반도(朝鮮半島)に上陸した。
慶尚道は最初の攻略地であり、이순신(李舜臣)が活躍した한산도 대첩(閑山島海戦)や、妓生の논개(論介)が敵将を巻き込んで崖から飛び降りたとされる진주성 전투(晋州城の戦い)など、6年間にわたる戦いの主要な舞台でもあった。
また慶尚道では頼りない官軍に代わり、地元の状況に明るい곽재우(郭再祐)などの義兵が立ち上がって日本軍に激しく抵抗した。
文禄・慶長の役で多大な被害を被った朝鮮だったが、徳川幕府からの度重なる要請を受け入れ、日本との貿易を再開し、조선통신사(朝鮮通信使)を派遣するようになった。
日本との外交・貿易は対馬藩を通じて行われたが、対馬藩は、釜山の地に왜관(倭館)という居留地を設け、その任務に当たった。倭館は面積10万坪の常時数百人の日本人が駐在する町で、現在の부산타워(釜山タワー)の周辺にあった。
甲午農民戦争
朝鮮時代末期の1894年には갑오 농민 전쟁(甲午農民戦争)が起き、조선왕조(朝鮮王朝)を揺るがした。日清戦争のきっかけにもなったこの農民たちによる武装蜂起の思想的基盤には、동학(東学)があった。
これを創ったのが慶州出身の최제우(崔済愚)で、それまでの社会秩序(性理学)を否定し危険思想を広めた罪で1864年に処刑されていたが、その思想は弟子らに受け継がれていった。
日本による併合
朝鮮王朝は19世紀末に대한 제국(大韓帝国)となるが、1910年の日韓併合により滅び、朝鮮は日本の植民地になる。
朝鮮時代末期の1876年、朝鮮は日本との강화도 조약(江華島条約=日朝修好条約)により釜山などを開港することになり、朝鮮半島にも近代化の波が押し寄せてきた。
韓国が併合された当時、釜山は日本人在住者の数が最も多く、その後も경성(京城=現在のソウル)に次いで2番目に多くの日本人が暮らした。
京城と釜山を結ぶ경부선(京釜線)が、日本が日露戦争に必要な物資の運搬に間に合わせるため1905年に開通した。鉄道を敷設する膨大な費用は日本からの借款などが当てられたが、日本の経済的侵略によって主権を奪われないよう、借款を国民の手で返そうという국채 보상 운동(国債補償運動)が대구(大邱)で始まり全国に拡大していった。
1910年の日韓併合以降、生活の糧を求めて、韓国から日本や満州へと渡る人が増えた。慶尚道からは地理的な条件から日本に渡る人が多かった。
現在の在日コリアンは、主にこの頃に日本に渡った人たちの子孫である。
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