韓国人の喜怒哀楽を表現した大衆音楽として、多くの人に愛されている트로트(トロット)。しばしば「韓国の演歌」と説明されることもありますが、時代とともに多様な音楽的要素を受け入れながら変化し、今では多様な世代に受け入れられています。
この記事では、「韓国の演歌」や「年配の人が聞く音楽」という説明だけでは片付けられないトロットの魅力について見ていきます。
まずはトロットが歩んできた歴史と名曲について見ていきましょう。
なお、「トロット」というジャンル名は、韓国では1970年代から使われ始めたとされています。それ以前の流行歌もトロットの枠組みの中で語られることが多く、この記事はそこまでさかのぼってから始めることにします。
2回目になる今回は日本の植民地統治からの解放後と朝鮮戦争があった1950年代の流行歌について見ます。
記事の目次
1940年代後半の流行歌
玄仁「신라의 달밤(新羅の月夜)」
1945年に日本の植民地支配から解放され1950年に朝鮮戦争が勃発するまでの時期の代表的な歌手は현인(玄仁)でしょう。
上野音楽学校(現在の東京藝術大学)で声楽を学び、上海で歌手として活動した後、解放後に帰国して音楽活動を再開しました。そして「신라의 달밤(新羅の月夜)」を発表し、旋風を巻き起こします。
玄仁「럭키 서울(ラッキーソウル)」
続いて48年には、解放の喜びと活気に満ちたソウルを歌った「럭키 서울(ラッキーソウル)」もヒットします。
南仁樹「가거라 삼팔선(去れ38度線)」
一方、解放前に「애수의 소야곡(哀愁の小夜曲)」を歌ってすでに人気歌手であった남인수(南仁樹)は48年に「가거라 삼팔선(去れ38度線)」を歌います。
解放直後の朝鮮半島は、北緯38度を境に、北はソ連が、南は米国が信託統治を行っていましたが、曲名の「38度線」はその境界を指すものです。
いずれ1つの政府を樹立するはずだったのが、48年の南半分だけの単独選挙に次ぐ大韓民国の樹立、同年の北の朝鮮民主主義人民共和国の樹立、そして50年に勃発し53年に休戦した朝鮮戦争を経て今日まで、南北の分断は続いており、この曲はその後の民族の苦難を予感させる曲でもあります。
1950年代の流行歌
韓国の50年代は、朝鮮戦争とそこからの復興の時代でした。この戦争は多くの死傷者を出しただけでなく、南北で1000万人に上るともいわれる離散家族を生みました。大衆歌謡界でも、家族の離散の悲しみを歌った曲が流行しました。
玄仁「굳세어라 금순아(がんばれクムスン)」
玄仁の「굳세어라 금순아(がんばれクムスン)」は、妹を残して一人南に逃れた姉の悲しみと願いを歌った曲で、韓国で大ヒットした映画『국제시장(国際市場で逢いましょう)』さながらの内容が歌詞に載せられています。
李海燕「단장의 미아리고개(断腸のミアリ峠)」
이해연(李海燕)の「단장의 미아리고개(断腸のミアリ峠)」も、北の人民軍の撤退時に連行されていく夫との別れを歌った曲です。作詞家の반야월(半夜月)はこの戦争中に幼い娘と生き別れており、それが作詞の動機になったといわれています。
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