光州民主化運動の全貌に迫る

韓国の歴史的転機! 光州民主化運動の全貌に迫る

韓国現代史において、 5.18민주화운동(オイルパルミンジュファウンドン)(光州民主化運動)は重要な出来事として記憶されている。

光州民主化運動は、「광주민중항쟁(クァンジュミンジュンハンジェン)(光州民衆抗争)」「5.18(オイルパル)」とも呼ばれる1980年に発生した市民運動で、その影響は国内外で大きな注目を浴びた。

この記事では、光州民主化運動の歴史とその後の影響について詳しく説明する。

光州民主化運動の背景と運動の発端

光州民主化運動は、1980年5月18日から27日までの10日間にわたり、광주(クァンジュ)(光州)市で市民たちが戒厳令の撤廃、전두환(チョンドゥファン)(全斗煥)の退陣、김대중(キムデジュン)(金大中)の釈放などを求めて行った民主化運動だ。

運動の背後には、1979年10月に約16年の軍事独裁を続けた박정희(パクチョンヒ)(朴正煕)大統領が暗殺された後、韓国は民主主義の実現を期待する「서울의 봄(ソウレ ボム)(ソウルの春)」と呼ばれる時期を迎えていたが、その直後の12月12日にクーデターを起こして軍を掌握した全斗煥らの新軍部は、政権の掌握に乗り出した。

翌年5月17日、非常戒厳令を全国に拡大させ、大都市に軍隊を投入する一方、金大中などの野党指導者を逮捕・拘禁した。

金大中の地盤でもある光州は軍の主な標的であったが、軍事独裁に反対する大学生たちを軍が暴力的に取り締まったことに市民が反発し、デモが拡大した。

それに対して軍は無差別発砲を行い、さらに多数の死者を出した。

素手で軍に対抗できないことを悟った市民たちは、近隣の派出所や予備軍の武器庫から旧式の武器を持ってきて武装。

一時は市中心部より戒厳軍を追い出し、市内の自治が行われたが、最終的に市を包囲した軍の武力により、多くの死者、負傷者を出して5月27日に制圧された。

5月29日、光州の망월동(マンウォルドン)(望月洞)墓地には129人の犠牲者の亡きがらが集められ、一斉に葬儀が行われた。

犠牲者数には諸説あるが、関連団体によると、市民側の死者165人、負傷して後に亡くなった人が376人、数千人の負傷者が出たとされる。

1980年に起こった光州民主化運動の経過

5月17日24時に非常戒厳令が全国に拡大。金大中などの野党人士や学生組織のリーダーたちを拘束。
5月18日戒厳軍が전남(チョンナム)(全南)大学の校門を閉鎖。続々と集まった学生が抗議するが、戒厳軍のこん棒により多くが流血する。この蛮行を人々に知らせるために学生たちは市中心部に移動するが、戒厳軍は市内にも投入される。
5月19日数千人に増え投石で対抗するデモ隊を、戒厳軍は装甲車、銃剣で威圧。
5月20日금남로(クムナムノ)(錦南路)でタクシー約200台が警笛を鳴らしてデモ。夜、光州駅を守る戒厳軍とデモ隊の攻防戦が激しさを増す一方、事実と全く異なる報道を聞いて激怒した市民がMBC放送局に押し掛け火を放った。
5月21日市民が朝から錦南路に集まる。昼すぎ、전라남도도청(チョルラナムドトチョン)(全羅南道道庁)にいる戒厳軍が市民に向けて無差別発砲。市民は郊外の武器庫などから武器を入手して武装し「시민군(シミングン)(市民軍)」を結成。戒厳軍は市内から撤退する。
5月22日市民学生収拾対策委員会(抗争指導部)が作られ、自治が行われる。一方の軍は市を完全包囲。市民学生収拾対策委員が戒厳軍を訪ね収拾案を伝達するが、軍側の交渉拒否により決裂する。
5月26日市民学生収拾対策委員会が外信記者たちへの記者会見を開く。
5月27日早朝、戒厳軍が市内に進入。投降に応じなかった市民が最後まで籠城して抗戦した道庁を5時すぎに制圧。

光州民主化運動のその後と影響

軍に連行された人々は、戒厳司令部の発表で1700人を超えるが、拷問や殴打を含む過酷な取り調べを受け、金大中と関連した内乱に結び付けるための自白を強要された者もいた(7月に金大中は内乱罪で死刑判決を受け、その後減刑)。

その内175人が内乱陰謀および戒厳令違反で起訴され、10月に開かれた軍法会議で5人に死刑判決が、残る170人の大部分に5年から10年の実刑が下されたが、2年の間に、徐々に減刑され全員が釈放された。

全南大学学生会長だった박관현(パククァニョン)(朴寛賢)のように、光州では難を逃れた運動関係者も、その後多くが検挙されたり、謎の死を遂げたりした(朴寛賢は獄中で断食闘争を続けて死去)。

光州民主化運動は、駐韓米軍がその指揮下にある韓国軍の光州への投入を承認したという事実から、米国に対する人々の認識を改める機会となった。

そして、1980年12月には光州の米国文化院が放火され、1982年にも釜山の米国文化院が放火された。

1980年代後半に入ると、光州は民主化の聖地としてあがめられ、大学生たちの「巡礼」の対象になる。

1987年の6月抗争で催涙弾の直撃により命を落とした大学生、이한열(イハニョル)(李韓烈)の民主国民葬の隊列もソウルから光州を目指し、亡きがらは望月洞墓地に葬られた。

それ以後民主化闘争で命を落とした人たちの多くは、この望月洞墓地に葬られるようになった。

名誉回復と補償

韓国現代史において、6.25 전쟁(ユギオジョンジェン)(朝鮮戦争)以降、最も激しく重要な出来事だった光州民主化運動は、1980年代を通して、全国的に民主化運動を推進する原動力になり、1987年の民主化につながった。

その後も、촛불 집회(チョップル チペ)(キャンドルデモ)に見られるように、権力の乱用に対し市民を直接立ち上がらせる勇気の源にもなっている。

当初は不純分子や暴徒による暴動とされた光州市民たちの抵抗は、1988年、国会において「광주민주화운동(クァンジュミンジュファウンドン)(光州民主化運動)」と規定され名誉回復がなされた。

また、1995年には「 5.18민주화운동 등에 관한 특별법(オイルパルミンジュファウンドン ドゥンエ クァナン トゥクビョルポプ)(5・18民主化運動などに関する特別法)」が成立。

1997年全斗煥に内乱罪などの罪で無期懲役が言い渡された(同年特赦)。犠牲者に対する補償は、1994年に設立された5・18記念財団を通じて行われている。

2011年には、光州民主化運動に関連するフィルム、証言、裁判資料、病院の治療記録などがユネスコの世界記録遺産に認定された。

この認定は、光州民主化運動の歴史的重要性を国際的に認識するものであり、その記憶を後世に伝える一環となっている。

光州民主化運動の真相究明

문재인(ムンジェイン)(文在寅)政権の下で光州民主化運動の真相究明に取り組む動きが加速。

韓国・国防省特別調査委員会の2018年2月の発表によると、軍が市民に対してヘリコプターで上空から機銃掃射を行った事実が新たに認定された。

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