5.18 민주화운동(光州民主化運動)は、1980年にあった民主化運動で「광주민중항쟁(光州民衆抗争)」「5・18」とも呼ばれている。今回は、光州民主化運動とはどんなものだったのかを簡単にまとめた。
事件はなぜ起こったの?
1979年10月に約16年間の軍事独裁が박정희(朴正煕)の死により幕を閉じると、韓国では民主主義の実現を期待する「서울의 봄(ソウルの春)」と呼ばれる時期を迎えた。
しかし直後の12月12日にクーデターを起こし軍を掌握した전두환(全斗煥)らの新軍部は、政権掌握に乗り出し、翌年5月17日非常戒厳令を全国に拡大させ、大都市に軍隊を投入する一方、김대중(金大中)などの野党指導者や学生組織のリーダーたちを拘束した。
金大中の地盤、全羅南道光州にある全南大学では学生会の呼び掛けにより、休校令が出された場合、学生たちが正門前に集まることになっていた。
18日の朝、学生が正門に集まり始め、200人余りの学生が校内に入ろうとすると、大学を閉鎖しに来た戒厳軍はこん棒を振り下ろし過激に対処した。
学生たちはこの蛮行を市民に知らせようと市内へと移動したが、戒厳軍はそれを追い掛け、街中で若者を探しては無差別に暴力を加えた。
こうした様子を見ていた一般市民たちが憤り、街に集まった。自発的に集まった人たちだったが、次第に「戒厳令撤廃」「全斗煥退陣」「金大中釈放」を口々に叫ぶようになった。
なぜ軍が市民に発砲することに?
当時人口およそ75万の光州にあって、市街に集まった人は最大20万人にもなったといわれている。
市内中のタクシー、バスなどの車両も隊列を組んでこれに加わり、軍とにらみ合った。戒厳軍側がこうした市民の圧力にこらえ切れず発砲に至ったと見るべきだろう。
問題は誰が、実弾を配り発砲する命令を下したのかだが、当時軍の最高地位にあった全斗煥が下したと考える人が多い。
ただしその明確な証拠は得られておらず、全斗煥本人も否定している。
制圧に投入された兵士たちはどういう人たちなの?
光州に投入された공수 부대(空輸部隊)は、日本では「空挺部隊」とも呼ばれる特殊部隊である。
兵士は一般に徴兵された人間がほとんどだが、光州に投入された部隊は、隔離された環境でデモ鎮圧訓練を徹底的に行い、騒ぎを起こしているのが「빨갱이(アカ)」、すなわち北の追従勢力で、国家を転覆させようとしていると教育された上で、現地に送り込まれた。
光州以外の人たちにこの事件はどう知らされたの?
市を完全に包囲した軍は、外部との通信手段を遮断し情報が市外に漏れることを防ぐ一方、マスメディアを通じて、北朝鮮の指示を受けた反乱勢力が光州で暴動を起こしているという放送を繰り返し流した。
しかし、口伝えなどによって、さらには市民側がまとめた記録集『죽음을 넘어 시대의 어둠을 넘어: 광주 5월 민중항쟁의 기록(死を越え、時代の闇を越え:光州5月民衆抗争の記録)』が地下出版されることによって広まっていった。
一方、韓国以外の国では光州で起きていることをある程度、ほぼ同時期に知ることができたが、これには当時光州にいた外信記者が果たした役割が大きい。
光州民主化運動の真相究明はいつまで続くの?
ろうそく革命の力で大統領に選ばれた문재인(文在寅)政権下では、政府が「光州民主化運動」の延長にあるものと規定し、発砲の真相と責任を追求し続けること、5・18の精神を憲法前文に盛り込むことを国民に約束した。そして国防省内部に特別調査委員会がつくられ、調査に当たる。
長年にわたって真相究明に取り組んできた委員の一人、안종철(安鍾哲)博士は「文在寅政権ができて、ついに真の名誉回復がなされた」と語ってくれた。
一日も早く責任問題が明らかになり、韓国の民主主義を進展させた光州民主化運動が、普遍的な価値を発揮するようになることを期待したい。
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