韓国随一の穀倉地帯で、おいしい食べ物と豊かな文化の宝庫といわれる전라도(全羅道)。魅力あふれる全羅道の地理と歴史を全4回に分けて紹介します。3回目のこの記事では、朝鮮王朝時代から日本による植民地統治時代までの歴史を見ていきます。「もっと知りたい!全羅道の歴史〈前編〉」記事と「もっと知りたい!全羅道の地理」記事も併せてご覧ください。
朝鮮時代の全羅道
조선왕조(朝鮮王朝)を開いた이성계(李成桂)は、전주 이씨(全州李氏)の家門で、高祖父が全州出身ということもあり、全州は李成桂の본향(本郷)ともいわれる。
고려(高麗)時代末期、李成桂は남원(南原)で倭寇と戦って勝利した後、高祖父のゆかりの地、全州の오목대(梧木台)で勝利の宴を開いた逸話が有名だ。
한반도(朝鮮半島)随一の穀倉地帯で、水田が広がる全羅道は、その豊かさ故に、収奪の対象となってきた。高麗時代より、税として朝廷に米を取り立てられただけでなく、頻繁な倭寇などの侵入による略奪が行われ、全羅道の民衆は苦しめられた。
16世紀には、豊臣秀吉の兵が全羅道を襲った。임진왜란(壬辰倭乱=文禄の役)の際、全羅道では、被害が大きかった경상도(慶尚道)や충청도(忠清道)を支援すべく義兵活動が活発に行われた。
しかし、정유재란(丁酉再乱=慶長の役)では남원성(南原城)や전주성(全州城)が陥落するなど、全羅道が多大な被害を被った。순천(順天)には小西行長らが築いた城で、慶長の役の最後の戦いの舞台となった순천왜성(順天倭城)がある。
一方、全羅道は政治犯らの流刑地にも使われ、実学思想の第一人者である정약용(丁若鏞)は강진(康津)で18年に及ぶ流刑生活を送った。
彼の代表的な著作、「목민심서(牧民心書)」は地方官吏が持つべき徳目を整理したもので、康津での生活が背景にある。
甲午農民戦争と全羅道
朝鮮時代末期になり、近代的な思想が芽生える一方、地方では旧態依然とした役人らによる横暴が続いていた。
1894年、そんな役人の横暴に端を発した農民らの蜂起が、경주(慶州)からすでに全羅道をはじめとした全国に広まっていた東学の力を得て、数万人規模の農民軍に膨らみ、全州を陥落させるに至った。
農民軍を率いたのは전봉준(全琫準)だった。朝廷はこの蜂起を鎮圧するため、清に軍隊の出動を要請、これを口実に日本軍も朝鮮半島に上陸し、청일전쟁(日清戦争)が起きた。
日清戦争の勝利によって、日本の朝鮮進出に拍車が掛かっていった。穀倉地帯の全羅道でも、1897年に목포(木浦)、1900年には군산(群山)が開港することになった。
特に群山には米屋や地主が進出し「米の群山」として知られるようになったという。
1909年末、日本人地主の所有面積を見ると、全国の3割以上が群山にあり、1914年には群山の日本人人口が朝鮮人人口を超えるほどになっていた。
群山では、現在もこの時代の日本式家屋が数多く見られ、韓国で唯一の日本式の寺「동국사(東国寺)」も残っている。
日本植民地統治時代の全羅道
日本人の進出に伴い交通網も整備されてゆき、1910年には광주(光州)や木浦と경성(京城=서울の旧称)を結ぶ国道が完成し、1913年には송정리(松汀里)、木浦と京城を結ぶ호남선(湖南線)が敷かれた。この時期、全羅南道は全国の道で一、二を争う人口の多い道だった。綿の栽培も盛んに行われた。
1929年10月30日、光州で通学途中の朝鮮人中学生と日本人中学生の間で衝突が起き、朝鮮人生徒だけが逮捕されたため、11月3日、これに抗議するためのデモが行われた。
しかしこの日、朝鮮人生徒と日本人生徒との間でさらなる大規模な衝突に発展し、多くの逮捕者を出した。
朝鮮人生徒は、逮捕された仲間の釈放と日本の植民地支配に抗議し、デモを続けた。この知らせに接した他の地域の生徒も各地でデモを繰り広げ、翌年の3月まで続いた。
韓国では、1919年の独立運動に次ぐ大規模な抗日運動として評価されている。
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